鳥取県立 むきばんだ史跡公園

遺跡について

妻木晩田遺跡の概要

中国地方の最高峰・大山の麓に甦った弥生時代の国邑(こくゆう)、それが妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)です。

遺跡のひろがりは鳥取県米子市・西伯郡大山町にまたがる晩田山(ばんだやま)丘陵全域におよび、弥生時代に大山山麓に存在したであろうクニの中心的な大集落であったと考えられます。

これまでに全体のおよそ10分の1が発掘調査され、弥生時代中期後葉(西暦紀元前1世紀~紀元1世紀前半頃)~古墳時代前期(3世紀前半頃)の、竪穴住居跡約460棟、掘立柱建物跡約510棟、山陰地方特有の形をした四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)などの墳墓39基や、環壕(かんごう)など、山陰地方の弥生時代像に見直しをせまる貴重な資料がたくさん発見されました。
現在は「鳥取県立むきばんだ史跡公園」として整備・公開しています。

 

むきばんだムラの盛衰

弥生時代 中期後葉
(紀元前1世紀~紀元1世紀前半頃)

弥生時代前期から中期にかけて平地が中心であったムラの立地は、この時期から次第に丘陵上へと移り変わっていきます。
妻木晩田の丘陵では、松尾頭地区に数棟の竪穴住居をつくった小集団が住み始めることでムラの形成が始まります。

弥生時代 後期前葉
(紀元1世紀後半頃)

弥生時代後期になると、妻木山地区や妻木新山地区まで居住域が広がります。
また、居住域から離れた洞ノ原地区の海を望む丘陵上に、四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)を主とする洞ノ原墳丘墓群(どうのはらふんきゅうぼぐん)や直径65メートルの範囲を囲む環壕(かんごう)がつくられます。
この時期、環壕に囲まれた範囲には竪穴住居や高床倉庫は建てられていません。

弥生時代 後期中葉
(紀元2世紀前半頃)

妻木新山、妻木山、松尾頭の各地区で竪穴住居の数がさらに増加し、居住域から離れた洞ノ原地区と仙谷地区に墳丘墓が築造されます。
洞ノ原墳丘墓群は四隅突出型墳丘墓1基を最後に造られなくなり、新たに仙谷墳丘墓群が形成されます。
仙谷1号墓(一辺約17メートル)は妻木晩田遺跡内最大の四隅突出型墳丘墓でです。

弥生時代 後期後葉
(紀元2世紀後半頃)

丘陵の全域に居住域が広がり、ムラの最盛期を迎えます。とりわけ、松尾頭地区と妻木山地区では竪穴住居の密度が高く、大型の建物跡もみられることから、松尾頭地区と妻木山地区がムラの中心地であったと考えられ、松尾頭地区では、祭殿とみられる大型の建物跡も見つかっています。
仙谷墳丘墓群では、妻木晩田遺跡最後の四隅突出型墳丘墓が築造されます。

弥生時代 終末期前半
(紀元2世紀末~3世紀初め頃)

居住の中心は引き続き妻木山地区と松尾頭地区と考えられますが、竪穴住居数は一時的に減少します。
仙谷地区と松尾頭地区に墳丘墓が築造されます。
松尾頭墳丘墓群は新たに形成された墳丘墓群で、この時期に3基の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)が築造されます。

弥生時代 終末期後半
(紀元3世紀前半頃)

竪穴住居の数が再び増加しており、ムラが再び拡大していた様子を窺うことができます。
居住域の中心は、引き続き松尾頭地区と妻木山地区です。
墓域は松尾頭地区にあり、方形周溝墓2基が築造されています。

古墳時代 前期
(紀元3世紀後半頃)

竪穴住居数が一気に減少し、ムラは衰退に向かいます。
この時期の竪穴住居は前期前葉頃で十数棟程度、その後は数棟程度となります。
墓域は松尾頭地区から再び仙谷地区に移り、仙谷墳丘墓群の北西端に墓が築造されます。

古墳時代 中期~終末期
(紀元5~7世紀頃)

遺跡の北半分に晩田山古墳群、番田山古墳群、松尾頭古墳群、妻木山古墳群など50基を超える古墳が、中期から終末期までの約300年間で次々と築造されます。
中には、時の首長墓と見られる直径41メートルの大型円墳や、全長31メートルから36メートルの前方後円墳3基も含まれています。